好きだった小説も、作者が AI を使ったと知ると評価が変わるのはなぜ?
作者が AI を使ったと知ると、なぜ小説への評価が変わるのか。AI を活用した小説を内容の質で評価すべきだと考える理由。
小説を読み終えた。人物は生き生きとしていて、結末に心を動かされ、友人にも薦めた。ところが、作者が AI を使ったと知った途端、その本がそれほどすごくないように思えてくる。
でも、作者はあなたが読んだ文章を一字も変えていません。変わったのは作者に対する見方と、本を評価する基準です。
物語を楽しむことから、功績の取り分を考えることへ
読書中、文章がもたらす感情のすべてを、表紙に名前のある人の功績だと考えがちです。なんて鋭い観察眼だろう。よくこんなことを思いついたな。この人物には長い時間をかけて向き合ったに違いない。
AI の関与を知ると、そのイメージが崩れます。この一文は誰が考えたのか。このどんでん返しは誰が設計したのか。作者を今までどおり尊敬していいのか。
物語を楽しむことが、功績の取り分を考える作業に変わります。最初は好きだった本まで、作者が思ったほど苦労していなかったと考えて否定する読者もいます。
ここでは、作るのがどれほど難しかったかと、できあがったものに価値があるかという、異なる二つのことが混同されています。
一冊に十年を費やしたことは、真剣さを示します。しかし、それで読者に楽しむ義務が生じるわけではありません。同様に、道具が執筆期間を短くしたというだけでは、称賛を取り消す理由になりません。本を楽しんだことを正当化するのに、作者の苦労の証明は要らないのです。
AI は従来の「創作者」像を揺さぶる
長い間、小説を書けることは希少な能力を意味していました。AI は、より多くの人が発想を文章に変える手段となり、難しそうだった仕事への入口を広げています。
この変化に居心地の悪さを覚えることもあるでしょう。私たちは創造力と文章を生み出す力を切り離せないものとして扱ってきました。今、その二つが分かれ始めています。道具は表現を提案し、創作者は何を書くか、何を選び、何を残し、最終的にどんな作品にするかを決めます。
すべての言葉を本人が書いた作品だけが評価に値すると主張すると、関心は読書体験から制作過程へ移ります。
業界の一部の人には、経済的な利害もあります。既存の技能の希少性が下がり、従来の参入障壁が弱まる。そのため、AI への抵抗は昔からの競争優位を守る試みでもあり得ます。
作品は内容によって評価されるべきだ
私の立場は明確です。読者を引き込んだ小説の価値を、作者が AI を使ったというだけで、後から取り消すべきではありません。
創作は、作者が最終的に何を届けたかで判断されるべきです。「AI 不使用」を勲章、「AI 使用」を汚点にすると、内容の判断が道具への判断に置き換わってしまいます。
それは、馬車の事業者に自動車の公道走行を許すか決めさせるようなものです。古い商売を揺るがすことは、新技術が存在してはいけない証拠にはなりません。既存産業の利益を万人が守る規則にしてしまえば、新たな可能性を妨げるだけです。
私の考えでは、AI はますます一般的な創作の道具になるでしょう。本当に危ういのは、学ぶことを拒みながら、「AI を使わない」ことが自分の競争力を守ってくれると期待することです。
創作者は道具を拒んで才能を証明する必要はありません。表現したいものをよりよく実現するために使うべきです。読者も、作者が AI を使ったと知っただけで、好きだった物語を否定する必要はありません。
楽しさは内容から生まれました。評価も内容に立ち返るべきです。